学徒勤労動員の想い出(川崎重工泉州工場)


                                                  齊藤 勇夫

1944年1月"緊急学徒勤労動員方策要綱"が閣議決定、"勤労即教育"として軍需生産優先の政府方針が明示され、同年7月から勤労動員が開始された。 同年12月には"中等学校新規卒業者の勤労動員継続に関する措置要綱"が閣議決定、上級学校入学者も軍関係等を除き6月まで動員継続となった。 それ故1945年4月、大阪府内政部長より各学校長あて"上級学校進学者は6月まで勤労動員継続"との通達が出た。 大阪府立岸和田中学4年生であった私達は1944年7月15日から造船現場での苛酷な動員生活が始まった。

1 韓国朝鮮人徴用工
1944年8―9月頃から強制連行による韓国朝鮮人徴用工が川重泉州工場の労働力に加わった。 全員が朝鮮半島からの徴用工で在日はいなかったと思う。 1次は南朝鮮、2次は北朝鮮からと地域別徴用を受けて来場し、3次か4次まであり、宿舎も南北が別になっていた。 海防艦と呂号潜水艦(輸送用)を建造していた工場では、中学生は主に取付(組立)現場に配属され、小生所属の佐伯組にも数名の韓国朝鮮人が学徒と同じ臨時工として配属された。 仲間になった彼等は、先職は不明ながら全員が学卒サラリーマンらしく話題も知的であった。 或る時、彼等を誘って仕事をサボり"アリラン"を韓国語で教わったことが、後のハングル勉強の導因になった。 当時小生が受けた感銘は今の日韓交流活動のエネルギーになったと思う。 造船現場で彼等の肉体労働は概して不器用で危なっかしく、最低の作業環境下で事故が多かった。 しかし当時の強制連行が労働の適不適に関係なく無差別に実行し人数合わせをしたらしく、全般的に先職は千差万別であり、最盛期にその人数は動員学徒を含め4000名を越えたという。
その頃、夜宿舎の近くを通って、灰田勝彦の"バタビアの夜は更けて"の歌声を何度か聞いたことを鮮明に覚えている。 "ハルーカー祖国ヨー、アノ日ノ旗ヨーー"と歌うリズムに勇壮な響きがなく日本では流行らなかったが、彼等の故郷を離れ、愛する家族とも引き裂かれた寂しさ悲しさの滲み出た旋律が、彼等の心にヒットしたものと思う。 後に韓国へ出張した際、酒の席でこの歌を朗々と歌う年配者に何度か出会って驚かされたが、日本のナツメロ番組では、戦後この歌声を聴いたことが一度もなかった。


2 作業用服装
勤労動員中、最大の頭痛の種は"服装"にあった。 中学入学時に購入した学帽、制服、靴等は全て品質が悪く、直ぐボロボロになり洗濯するとヨレヨレになったが、通学期間中は継ぎ接ぎの制服に、校内では常に裸足で過ごし、靴は軍事教練時のみに使用し、登下校は地面に鼻緒をすげたような下駄履きであった。 しかし動員開始と共に直ぐに苦労が始まった。 工場からは作業服・靴等の貸与もなく、各家庭で母親が擦り切れた作業服(学生服)に夜鍋して継ぎ接ぎを重ね、情けないことに月一度の登校日も替服がなく嬉しくなかった。 しかし作業服に下ろした学生服も到底一年間の労働に耐えられず、最終的には、使途のなくなった柔道着・剣道着を作業着に転用した。 柔道着は厚過ぎたが剣道着は丈夫で最適であり、見知らぬ工員から"譲れ"と揺すられたこともあった。 韓国朝鮮人徴用工の場合はもっと憐れであった。 自前の擦切れ作業服を針金で繕ったりは普通で、セメント紙袋に三ヶ所あなを開け、上から被り頭と腕を出して作業していた人もいた。 プライドを捨て去った姿であった。 苦労中の苦労は履き物にあった。 靴はボロボロになっても底抜けのまま使用し、最後は藁草履を履いていた。 造船現場ではカッター工場以外一般作業場もドックも屋根がなく、雨天の日は足元がびしょ濡れになり感電の危険性が更に増し、命懸けであった。 現在汎用の厚底ゴムの安全靴があれば殆どの感電事故は防げたと思う。


3 事故
軽傷を含めると殆ど全員が事故を経験しており、主原因は貧弱な服装にあったと思う。 小生は、手の爪をころしたことが三度あり、初回に工場診療所でいきなり爪を剥されたため次回からは医者に診せなかった。 動員初期には電気熔接の光線を無意識に眼に受け、夜間に眼底が焼けるように痛み不眠が続いたことがあったが、以後注意するようにした。 作業手袋や防護眼鏡は充分に与えられなかった。 鉄板カッターは大中小と三種あり、小型(約30cm巾)が最も危険で何故か手指を落す韓国朝鮮人が多かった。 人指指の第一関節での切断が最も多く、4本同時に失った人もいた。 工場建屋の裏に投げ捨てられた手指はカラスの餌になっていた。 しかし最も頻度の高い事故は感電であり、環境は極端に悪く高圧電線に触れる事故は日常茶飯事で小生も数回経験した。 作業場では足元に熔接用電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、処々ゴムの被服が破れて臨時に縄で巻いた個所があり、知らずに踏むと両足首を後方から強烈な力で掴まれた感じがして気付いた時はひっくり返って後頭部をしたたか打っているという ― これが感電事故です。 柔道部の猛者でも受け身がとれないほど瞬間の衝撃です。 倒れる瞬間に周囲を驚かせる様な嬌声をあげる人や黙ってひっくり返る人等さまざまであったが、"感電で死ぬ"とは最初あまり予想しなかった。 しかし朝鮮人の事故死は月に一人位の頻度で、殆どの原因は感電であったと思う。 播磨造船に動員された友人の後日の話によれば"週に一人の犠牲者"であった由。 川崎重工は"まだマシ"だったかなと思う。 工場には"保安係"の腕章を巻き綺麗な作業服を着て場内を闊歩している連中がいたが、彼等は安全管理が目的ではなくサボっている徴用工や学徒を摘発しては危険な現場へ追い立てるための存在であった故に、常に彼等に注意を払わねばならなかった。

4 友の事故死

1945年4月、進学校の入学式を終え微かな希望を抱き互いに明るい表情をしていたが、再び元の動員生活に強制的に引き戻され勤労意欲は地に落ちていた。 その日は、桜の花も散りサボりたくなる様な陽光穏やかな日和であった。 昼食が終り監督の藤田先生は私用退勤、従って勤務終了後の点呼が省かれるため小生、高谷左京君をエスケープに誘った。 工場内の海岸線に沿って東方へと20分位歩くと工場境界の塀などなく、容易に深日町の漁師街に出ることがてきた。 漁船の陰に二人で腰を下ろし穏やかな海を眺めながら話込んでいた処、工場の保安係が直ぐ近くを通り掛かった。 二人はサッと身を伏せ素早い行動に発見はされなかったが、高谷君はこれを契機に、何故か良心が頭を擡げ悪事の気勢を削がれ、"作業場へ戻る"と言い出す始末。 折角脱出して来たのに、しばらく"戻る""止めろ"の口論の末、彼は意思が堅く"では勝手にしろ"と喧嘩別れした。 彼は独りトボトボと戻って行った。 それが最後でした。 建造中の潜水艦の上部で感電したため約十メートル落下したが、艦の両側に何段かの足場があり、それにぶつかり加速度を落しながら落下したため即死ではなかったが、7日後、4月16日に亡くなった。 お母さんのお話では背中に導電の跡を示す青い線が残っていたとのこと。 彼の葬儀終了後友人と共に登校し山下長禄教務主任に会い"殉職扱いとするよう"要請した。 しかし山下先生は"君、そんなこと出来るかね。ハッハッハ"と一蹴されてしまった。 高谷君は母子二人の家庭に育ち師範学校の合格通知を受け入学直前の事故死であった。 不運でした。 今も時々悪夢のように思い出す。
一年先輩の大野昌司さんは柔剣道を始めスポーツは万能、学業にも優れ毎年級長に選ばれ、陸士海兵に岸和田中学を代表して体験入学した将来を宿望された模範生であり、典型的な軍国少年であった。 又私達の憬れでもあった。 工場では、手抜き出来ない厳しい重労働の"鋲打ち"係を自ら進んで引受け、熟練工と組んで弱音も吐かず働いていた。 夜は睡眠時間を割いて進学のための猛勉強をしていたと言う。 しかしながら1944年8月16日遂に過労で倒れ、私達は"風邪のため"と聞かされたが、8月20日夕方、高熱が下がることなく急死された。 最後は意識朦朧としたなか、うわ言で近く進水する潜水艦の話をして"天皇陛下万歳"と唱えたという。 病名は急性肺炎とあったが、間接原因は感電ではなかったかと思う。 友永岸中校長は弔辞に"その壮絶第一線の将兵に譲らざるものあり"と称えたが、"志将に成らんとして不幸病魔の冒す所となり誠に哀痛に堪えざる也"とあり、文面の裏に"事故でも殉職でもなく学校に責任はない"という血も涙もない当時の教育の本音が感じられた。
かくして二名の犠牲者を出したが、川崎重工は"本人の責任による事故で労働災害とは認められない"との態度に終始し、学校側も"殉職"としての手続きは執らなかった。 1944年中の学徒動員事故率全国一位であった大阪府は、文部省から特別視察を受け注意と改善を強く促されていたため、実際の事故を表に出せない雰囲気があったと推定される。 戦後1955年頃から各学校は当時の事故事実を表に出す手続きを始め、1975年6月付の"大阪府学徒勤労動員による殉職者芳名録"には223名が記録されている。 岸中の当時の教務主任山下先生は戦後出世され1947年から13年間に亙り校長職にあったが、二名の名誉回復を諮ることはしなかった。 しかし半世紀を経て1997年、岸高百年沿革史の発行を機に、執筆を担当された社会学の横山篤夫先生の調査とご努力により、二名の殉職者としての記録が校史に遺され、且つ1999年10月30日の教育祭に際して、大阪城公園内にある教育塔に特別合葬して頂いた。 現在、大野さん・高谷君の魂は大阪城公園の碧濃き杜に安らかに眠っている。


5 卒業後の勤労動員継続
時局柄やむを得ない措置であったかも知れないが、この"動員継続"の通達は当時の狂った世相を反映した愚策の一つであり、学校(岸中)側は何の疑いも矛盾も感ずることなく、私達卒業生に対し動員継続を強制してきた。 しかしながら私達は素直に従った訳ではなく、陸士海兵入学者は勿論、家業を継ぐ者等も4月からは来なくなり、積極的に反対できない気弱な上級校進学者のみが渋々方針に従ったと思う。 それ故、異常な現象が起きた。 卒業後の動員継続者(旧4・5年生)の合計人数が新しく動員生活に加わった新4年生よりかなり少なくなり、その為下級生(新4年生)が生意気な上級生(旧4・5年生)を一人づつ工場建屋の裏手に呼び出しては蛸を釣る(リンチを加える)下剋上の風潮が現れた。 全員がではなく、過去に下級生をしごいた実績者が狙われた。 従って共に苦しみを分かち合った仲間でありながら、人間関係が横にも縦にも壁が出来てしまい、"川重動員OB会"も出来なかったことが悔やまれる(卒業時に動員終了であれば出来たと思う)。 "卒業生に対する動員継続命令"は理不尽な要求であり、3ケ月間は強制労働に近いものであったことを考える時、その期間内での犠牲者、高谷君はさぞ無念であったと思う。
6 結語
当時の為政者の無計画な戦争開始による矛盾の辻褄合わせの一つとして、学徒動員が始まり卒業後も動員継続を強制されたが、果たして"増産の力となり米英撃滅の力"となったであろうか。 工場では不充分な受入体制のまま多くの韓国朝鮮人徴用工と学徒を集めた結果、最低の労働環境下で、徒に事故者・犠牲者を増やしただけであったと思う。 潜水艦の胴体の接続に初期にはベルトを巻き鋲で固定していたが、最後は工期を急かされ熔接付けとなった。 恐らく目的地到着以前に亀裂を生じ、魚雷を受けずに沈没したのではないか。 ペンを捨てハンマーを握った私達は、初期の理念"勤労即教育"からは程遠く、永年多くのしこりのみを残した。 小生、サラリーマン時代に技術ライセンシングを長く担当したため、多くのエンジニアリングメーカや機械メーカとの取引きを経験したが、"川の字"のマークに嫌悪を感じたためか、川重とのビジネスは一度もなかった。 得る処の殆どない命懸けの動員生活であったが、韓国朝鮮人との良き"出会い"は、個人的に、小生の人生における最大の収穫だったと思う。

 





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