日本と韓国・朝鮮関係史プロジェクト

 2003年10月15日 報告

朝鮮人虐殺事件についてこれまで明らかにされてきたこと

 192391日の関東大震災発生後における朝鮮人虐殺事件については、1960年代から本格的な研究が開始され、長らく知られていなかった様々な事実が明らかにされてきました。今日、いわば定説になっていることとしては次のようなことがあります。

1、日本人民衆がなぜ虐殺にむかったか?

大きな社会的背景として、@近代日本において形成されていた朝鮮人に対する蔑視、差別意識、A第一次世界大戦後の国内における民衆運動の活性化、B植民地での民族解放運動の活性化、C低賃金労働者である朝鮮人が日本人の職を奪っているという意識、が関係していました。補足すれば、@すでにより狭い地域で見れば、震災前にも朝鮮人労働者に対する日本人民衆の襲撃や虐待、虐殺が行われていた、A1917年のロシア革命などを背景として警察当局は労働運動や農民運動も危険視し、それに備える意味で地域レベルでの自警団結成を進めていた、B1919年には朝鮮全土で31独立運動が闘われ、日本内地でも朝鮮人運動団体の組織が進みつつあった、さらに、震災当時の内務大臣および内務省警保局長はそれぞれ朝鮮総督府政務総監(文官のトップ)、警務局長の役職を経験していた、C第一次世界大戦時、日本内地は好況で朝鮮人労働者を歓迎しましたが、戦後、不況に陥り、失業者が増え始めていた、という事実もあります。

2、虐殺が行われた直接的背景と行政当局

 虐殺事件は震災後、人心が不安になっていた際に「朝鮮人が来襲し、放火、強姦、井戸に毒を入れている」といったデマが発生しました。このデマの発生源については特定されていません。しかし、92日*には、治安取締の責任者である内務省警保局はこのデマが事実であり朝鮮人の行動に警戒するよう呼びかける指令を地方長官宛に通達しています。このようななかで一般市民らは自警団を組織ないし活用し、竹槍、刀剣などで朝鮮人を虐殺したのです。そして、「天下晴れての人殺し」(虐殺に当った日本人の言葉)、つまり当局も朝鮮人を殺すことを認めているという意識のもとに朝鮮人虐殺が行われたのでした。虐殺事件の拡大に逆に恐れをなした行政当局は5日には自警団の統制、朝鮮人保護の方針を打ち出しますが、混乱が収まるには時間がかかりました。なお、行政当局自体による自警団に朝鮮人殺害の指令についての証言もいくつかなされています。

 したがって、デマを作り出したのが行政当局であるかどうかまでは不明ですが、日本人民衆を朝鮮人虐殺に向かわせた契機を作り出したのは、本来、治安の維持にあたるべき行政当局自身であったということは否定できない事実です。

3、虐殺の実態

 帝国政府司法省が認めた虐殺による朝鮮人死者は*名(うち神奈川県内では2名)ですが、朝鮮人金学承らが吉野作造の協力を得て行った調査では、約6000人が犠牲になったとされています。金学承調査では神奈川県内の犠牲者は約4000人とされています(その多くが横浜周辺です)。しかし、県内在住の当時の朝鮮人数などから見て多すぎることなどからやや疑問であり、諸資料を検討して神奈川県内では2000名余りであったのではないかという説も提示されています。この説を提示している梶村秀樹が言うように「もとより人数の多寡の問題ではないが」「これでも東京以上の人数であり、在住人口との対比でいって格段に比率が高い」ことが銘記されなくてはなりません(『神奈川県史 各論編1662頁)

 なお、金学承調査によれば、遺体発見場所で多いのは神奈川鉄橋500名、子安町より神奈川駅150名、土方橋より八幡橋まで103名、神奈川浅野造船所48名、などです。このうち神奈川鉄橋では軍隊・警察が拠点をおいていた関係で他の地区から遺体を移動した可能性が推定されています。

4、虐殺に対する国家の責任の隠蔽

 虐殺事件を引き起こした責任はかなりの部分、当時の治安取締当局にあることは否定できません。震災直後の帝国議会でも、「誇大せる報道を政府自らの手によって発表したことが根本の原因ではないか」「内務省の最高部から出た所の命令が地方に伝えられ、地方長官が又、管下の官庁に伝えまして、その結果、自警団の組織を見るに至った」のであるとして政府の責任を追及する声があがっていました。また、諸外国からも非難の眼が向けられ、特に中国人に対する虐殺も行われたことから中華民国政府の抗議もありました。朝鮮半島においても、当然、真実の公表とあわせて帝国政府を批判する声があがっていました。

 しかし、日本国家が朝鮮人虐殺に関して責任を認め謝罪することはその後もありませんでした。逆に、事件発生直後から責任を隠蔽する工作を行っていたことが明らかになっています。

まず、95日、関係者は、朝鮮人に大きな迫害は加えていないこと、逆に朝鮮人の犯罪行為の事実、それが社会主義者と関連があるかのように印象付けることを打ち合わせています。つまり意図的な情報操作が行われたわけです。そして、*月には、朝鮮人アナキスト朴烈らを、摂政宮(大正天皇に代わって国事を担当していた、後の昭和天皇)暗殺を企てたとして逮捕しました。このことは、日本人民衆に朝鮮人=危険分子というイメージを植え付け、虐殺事件の問題から眼をそらす働きをしました。

 また、司法省は、デマの発生源を、立憲労働党総理山口正憲による横浜市中村町平楽ノ原における避難民に対する演説であるとする見解をとっていました。

 なお、日本人と朝鮮人の対立が激化することは、日本国内の治安維持や朝鮮植民地統治にとっても好ましくないことであり、朝鮮総督府や内務省では、その後、「内鮮融和事業」を開始します。そこで力が注がれたのは、日本人側の民族差別の反省を促すということよりは、在日朝鮮人が日本国家の施策に従うよう教化するということでした。同時に、その過程でいわゆる親日派の朝鮮人が育成されていきました。

5、虐殺事件と民衆の責任・記憶

 罪もない朝鮮人を虐殺したり、間接的にではあってもそれに荷担する行為を働いたりした日本人民衆も相当な数にのぼります。しかし、彼ら自身がその責任を自覚したり、あるいはそれが問われることもあまりありませんでした。虐殺行為は当然、刑事裁判に問われるべきものですが、すべてが刑事裁判にかけられたわけではなく、また、その裁判でも比較的刑の軽い判決が下されたり、恩赦の措置がとられたりしたケースが多いことが知られています。

 また、長らく(あるいは現在においても、かもしれません)、朝鮮人虐殺事件はタブーであり、市町村史などでも、事件の背景、実態などは詳しくは記述されてきませんでした。戦後において建立された、震災時の犠牲者に関する慰霊碑などの碑文も同様の傾向があります。

参考文献:

姜徳相『関東大震災』、中公新書、1975

梶村秀樹「在日朝鮮人の生活史」神奈川県『神奈川県史各論編1』、1983

横浜市『横浜市史 第5巻下』、1976

山田昭次『』、創史社、2003

民団神奈川県本部『関東大震災横浜記録』、民団神奈川県本部、1993

朝鮮人虐殺事件の研究史と文献案内

 戦前において、関東大震災の朝鮮人虐殺事件はタブーでした。関東大震災の物理的被害・人的被害の実態と復興過程をまとめた書籍は少なくありませんが、朝鮮人虐殺事件の事実究明は言論弾圧の関係もあって困難でした。そうしたなかでも、同時代の社会主義者や民本主義者による、朝鮮人虐殺事件に言及した論考はあります。吉野作造はこの問題にもっとも深く関心を寄せ、いくつかの文章を残しています(『吉野作造選集9』、岩波書店、1995年に収録)。

 朝鮮人の間では虐殺事件の記憶は消え去ることはありませんでした。朝鮮人に対する言論弾圧は一層厳しいものがあり、戦前においては著作としてまとまったものはないようですが、敗戦直後の、194*年には、*『朝鮮人狩りー関東大震災時白色テロルの真相ー』という本がまとめられています。史料の発掘、整備を行い、研究を切り開いたもの在日朝鮮人の歴史家によってでした。そうした作業は1960年代になって本格化し、1963年には姜徳相『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』が出されています。また、そこに収録された資料をもとに姜徳相は「関東大震災に於ける朝鮮人虐殺の実態―特に40周年を記念して」『歴史学研究』19637月、を発表しています。この論文は行政当局のデマ伝達への関与など今日明らかになっている朝鮮人虐殺の背景を明らかにしたものでした。それ以前に日本人研究者が発表したこのテーマについての論文は「朝鮮人さわぎ」「朝鮮人迫害」といった用語を使っていましたが、今日定着している「朝鮮人虐殺」の語を用いたのはこの論文が初めてであると思われます。なお、姜徳相は1975年に『関東大震災』、中公新書として研究をまとめています。

 研究が拡がりを見せ、日本人も研究しはじめるとともに、地域レベルでの朝鮮人虐殺の実態調査がようやく本格化したのは1970年代に入ってでした。横浜市ないし神奈川県に関する研究に関係する主な論稿としては、次のようなものがあります。

山本すみ子「朝鮮人虐殺と歴史読本」『教育労働研究』19735月。

山本すみ子「朝鮮人虐殺と歴史読本・補足」『教育労働研究』197310月。

山本すみ子「内鮮融和作文にみる排外主義―三たび『関東大震災と朝鮮人虐殺について』」『教育労働研究』19746月。

今井清一・斎藤秀夫『歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺』、現代史出版会、1975年。

横浜市『横浜市史 第5巻下』、1976年。

大図健吾「関東大震災時、虐殺朝鮮人慰霊事業についての覚え書―村尾履吉と李誠七のこと―」神奈川県歴史教育者協議会横浜高校部会『高校社会科の創造』第1集、1977年。

ねずまさし「横浜の虐殺慰霊碑」『季刊三千里』19802月。

梶村秀樹「在日朝鮮人の生活史」神奈川県『神奈川県史各論編1』、1983年。

樋口雄一「自警団設立と在日朝鮮人」『在日朝鮮人史研究』198410月。

坂井俊樹「虐殺された朝鮮人の追悼と社会事業の展開―村尾履吉と李誠七を中心として―」『歴史評論』19939月。

民団神奈川県本部『関東大震災横浜記録』、民団神奈川県本部、1993

山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任―』、創史社、2003年。

また、琴秉洞編『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料 朝鮮人虐殺関連児童証言史料』、緑蔭書房、1989年、には、横浜市寿小学校、磯子小学校児童の震災直後の作文が収録されています。

横浜在住の中国人と関東大震災

 関東大震災時には、中国人も迫害の対象となりました。外国人であった中国人は本来、「単純労働者」としての入国が制限されていましたが、第一次世界大戦時の好況を背景に、日本にやってきていいました。関東大震災時の「東京地方」の中国人人口は約4500人、うち2000人が労働者であったと伝えられています。このようななかで、江東区大島町などで、自警団による中国人虐殺事件が起こっており、犠牲者は500名を超えていると言われています。

 「中華街」がすでに形成されていた横浜市でも中国人虐殺事件があったことが伝えられています。その数は数十名にのぼるようです。

また、そもそも埋立地で地盤が弱いこともって、中華街に住んでいた中国人の約3分の1が亡くなるなどの多大な被害をこうむったと言われています。

 なお、関東大震災時においては、当時の日本国家が危険視していた、日本人の社会主義者・無政府主義者も殺害されました。ただし、それは、相対的に人数が少なく、軍人らが秘密裏に行ったものであるという意味では、中国人や朝鮮人に対する虐殺とは異なる条件を持つ事件です。

参考文献:

仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』、岩波書店、1991年。

王維『素顔の中華街』、洋泉社、2003年。

戦前における横浜在住朝鮮人の慰霊活動

 関東大震災の起った1923年末時点の神奈川県の朝鮮人人口は1860人(朝鮮総督府史料)でしたが、その後19245月には3454人、同年12月には4028人、192812月には1207人(内務省警保局史料)と大幅に増加していっています。皮肉なことですが、震災の復旧工事の関係で就労先が生まれ朝鮮人の流入が続いたのです。そのようななかで、1920年代後半には朝鮮人労働組合が横浜でも結成され、毎年9月には虐殺された朝鮮人の追悼集会を行っていました。しかし、警察は追悼集会にも弾圧を加え、朝鮮人労働組合自体も1930年代には活動が出来ない状況に追い込まれました。

 このほかに、戦前には李誠七という人物が1924年から毎年、南区堀の内町の真言宗宝生寺において亡くなった朝鮮人の慰霊活動を行っていました。李誠七については、「同胞の救済団体愛隣園」を主宰していたといったことのほかはあまり知られていないが、戦後直後には朝連(在日本朝鮮人連盟、在日朝鮮人を網羅して結成された朝鮮人団体)の地域支部役職者にその名前が見えることからみて(ただし、朝連〜朝鮮総連系の民族団体に長く関わった形跡はなく、むしろ、その後は民団に所属していたようです)、地域レベルのリーダーとしてある程度の信望を得ていたと思われます。

資料:『朝鮮日報』192798日「数千同胞慟哭のうちに 横浜の震災追悼」

大正12年の関東震災当時、横死した朝鮮同胞の第4周年記念追悼会は、さる3日午後1時半から横浜市山下町中華和親劇場で神奈川朝鮮労働組合主催・東京横浜各無産団体後援で開催された。定刻前から集まった老若男女の朝鮮同胞その他で場内は立錐の余地がなく満員になった。「噫 震災当時横死朝鮮同胞諸位」と赤い布に白い文字を大きく書いて中央に掲げ、左右には「悲哉痛哉謹悼震災当時横死我同胞」など多数の文字を書いて貼ってあるのだが、李東宰君の司会と金天海君の開会の言葉が終わるや一同は総起立して、2分間黙祷をした後、震災当時の報告をして、各所から来た追悼文を朗読した。労働総同盟と新幹会の追悼文と各団体代表の追悼の言葉は臨席警官から中止の命を受けた。〔略〕午後5時に閉会したのであるが、中国国民党支部からは長文の追悼文が送られた。(横浜)

朝鮮人虐殺事件の社会的影響

 関東大震災時の朝鮮人虐殺事件は、突発的一時的なものとして捉えられない重要な問題を投げかけています。その史実の重要性は「19239月」という時点のみで考えずに、例えば次のようなことと関連させて考えることで浮かび上がるはずです。

 まず、そもそも関東大震災以前にもその後にも、しばしば朝鮮人に対する日本人民衆の迫害が発生していたことです。代表的なものとしては、1922年の信濃川発電所工事現場での朝鮮人労働者虐待事件や、1926年に起こった三重県木本町における地元日本人住民による朝鮮人飯場襲撃事件などがあります。これは、民衆レベルの朝鮮人差別、危険視が根強かったことを示します。また、日本政府は関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の実態を知らせず、朝鮮人を殺害した日本人に対する処罰も極めて軽いなど、国家としての責任を隠蔽しました。そして、朝鮮人=危険分子で災害発生時に何をしでかすかわからない、といった認識はその後も改まりませんでした。震災時の虐殺から2年後の1926年には小樽高商の軍事教練で「大地震発生時に暴徒化した朝鮮人が住民を襲った」という想定での演習が行われています(史料@はそれに対する当時の在日朝鮮人団体のビラです)。

 その後も、関東大震災の記憶は朝鮮人の間で、何かあるたびに呼び起こされました。例えば、戦争末期にも、日本人の朝鮮人に対する危険視は消えず、日本人と朝鮮人との対立が引き起こされる可能性を感じていた朝鮮人がいたことが確認できます(史料A)。

 また、関東大震災時に朝鮮人をかくまった日本人がいることなど、友好の事実があったことも確かですが、全体としてみれば、朝鮮人に対して警戒的敵対的な態度をとった日本人民衆が多いことは否定できません。そのようななかで、1920年代に芽生えていた社会主義者たちの日朝連帯の動きに関東大震災時の虐殺事件はマイナスの影響を与えた事実もあります。史料Bは、ある朝鮮人民族運動家の関東大震災に関連した回想です。

さらに言えば、今日においても、「災害時に外国人は何をするかわからない」という見方は根強く、社会的影響力を持つ人々の間でもそのような見方を煽り立てるような発言がなされています。外国人を危険視し罪もない人々に迫害を加えかねない思想状況はいまだに克服されていないこと、そのようななかでストレスを感じながら暮らしている外国人が少なからずいるであろうことを、私たちは認識する必要があります。その意味でも関東大震災時の朝鮮人虐殺の史実を見すえることはより重要性を増していると言えるでしょう。

史料@:在日本朝鮮労働総同盟「日本無産階級に与ふ」

小樽高等商業学校では軍事教官鈴木少佐の指揮のもとに去る15日左記の想定で軍事教育野外演習を行った

(1)      1015日午前6時天狗岳を中心とした俄然大地震あり札幌及び小樽の家屋殆ど崩潰し諸処に火災起り折柄の西風に火勢を強め今や小樽市民は人心恐々として適従ところを知らず

(2)      無政府主義者団、不逞鮮人を扇動してこの時機に於て札幌及び小樽を全滅せしめんと小樽公園に於て画策しつつあるを知った小樽在郷軍人団は忽ち奮起してこれと格闘の後東方に撃退したが敵は汐台高地の天険により頑強に反抗し肉飛び骨砕け鮮血に満山紅葉と化せしも獅子奮迅一歩も退かずために追撃は一頓挫するに至れり

(3)      小樽高等商業学校生徒隊に応急準備令下り該隊は午前九時校庭に集合し隊を編成す、その任務は在郷軍人団と協力し敵を絶滅するにあり(『東京日日』記事)

即ち朝鮮人○○〔虐殺カ〕の演習を行ったのである。之によって吾々は日本の各学校に於ける軍事教育が如何なるものであるかを知ることが出来る。

吾々には一昨年震災当時の記憶が猶鮮である。そして吾々はその時、朝鮮人に加えられた○○が如何に計画的なものであり、又其の計画が何処から出たものであったかをよく知っている。

日本の無産階級の諸君! 諸君は、今日日本軍事教育上のあの想定が如何に一昨年の震災当時のあの事実と関連あるものであるかを容易に理解するであろう。

我々は固より日本のブルジョアジーが我々に正義を以て対することを期待しないものである。震災があった一昨年に於て朝鮮人を○○し、震災がない今日に於て地震を想定して朝鮮人○○を演習することが、堕落した彼等には或は正当のことの様に考へられるかも知らない。

しかし吾々は日本の無産階級の諸君に訴へる。

諸君は此の罪悪に対して無産階級的態度を示せ!

諸君はブルジョア日本人と同じ日本人でないことを示せ!

史料A:警視庁把握の「流言蜚語」中に記された「鄭然圭」が関係各方面に送った印刷物の文言(内務省警保局『朝鮮人運動の状況』19434月分、『在日朝鮮人関係資料集成』第5巻、143頁)。

一般市民中にはその排他的狭量心から、又今尚関東震災当時の事実無根の朝鮮人事件から誤解を抱いている者があるらしく、空襲や物資の配給生活や又竹槍や鳶口等の訓練に伴って、朝鮮人に対する誤解が募り、空襲時に朝鮮人が或いは襲撃しはせぬかとの疑いを抱いている者がいるらしく存ぜられ候。

史料B:キム・サン、ニム・ウェールズ著『アリランの歌』、岩波書店、1987年、9296頁。

東京は3000の朝鮮人学生に限らず、様々な種類の亡命革命家を含む1000人ほどの朝鮮知識人のかくれがだった…リベラルな日本人と朝鮮人とはよい関係にあり、極東地域インターナショナルの精神は、これら日本人の指導の下に生まれつつあった。日本人と朝鮮人とは西方からの新たな国際民主主義運動の兆候を熱心に見守っていた。ヴェルサイユ会議のあと日本は他の帝国主義国からおびやかされる危険が消えたと感じて、しばらくの間、国家主義的な警戒を弛めていたのだが、それからわずか4年ののちの日本の大震災により、この夢を破る大虐殺がもちあがった……

1923年以来、朝鮮人は決して日本人を信用しないし、日本人も朝鮮人を信用しない。……

朝鮮中どこへ行っても、1923年に日本で親類が殺されたという家族に会う。共産党員が日本のプロレタリアートとの協力を言い出すと、きまって民族主義者が激しい調子で1923年のことを持ち出し、日本人を信用していいと彼らに得心させることは難しい。

関東大震災時の治安維持の評価をめぐって

 関東大震災時の朝鮮人虐殺事件が発生するなど、多大な問題が発生したことは否定できない事実です。しかし一部には政府の対応を肯定的に評価する見解もあります。

 すなわち、藤岡信勝編『教科書が教えない歴史2』、産経新聞ニュースサービス、1997年、に収録されている「関東大震災後すばやく勅令戒厳」という文章では、2日夕方、非常戒厳の発布によって「『朝鮮人が暴動を起こす』などのデマで多くの朝鮮人が殺されるなど騒然としていた被災地も、この発令によって次第に落ち着きを取り戻しました」などと述べるとともに、政府、警察、軍部の対応を「迅速で的確な対応」と高く評価しています。そして、それが可能だったのは「当時の政治家、官僚、軍人には、国民を守ろうという強い使命感があふれた人が多かった」ためであると論をまとめています。

 しかし、そもそも、戒厳令の施行された2日夕方以降にも流言が広がり、多くの朝鮮人が虐殺されていました。また、大杉栄などの社会主義者は*日に軍人によって殺害されています。これらの事実についてこの論の著者は触れていませんが。「当時の政治家、官僚、軍人」に「国民を守ろうという強い使命感があふれていた」がゆえにこのような事態が発生したのでしょうか?

 朝鮮人虐殺事件等を無視して当時の行政当局の施策を評価する立場の人々は、日本国家に逆らう可能性のある「異民族」や「社会主義者」は「国民」には含まれない、あるいはその生命を守らなくていい、といった論にかなり近いところに位置していると言わざるを得ないでしょう。
                                                   (文責 外村 大)